2010年



ーー−3/2−ーー 敗北の記憶


 バンクーバー五輪の女子フィギュアスケートで、浅田真央選手が銀メダルを取った。三回転半ジャンプを、ショート・プログラムで1回、フリーで2回決めるという、前人未到の快挙も成し遂げた。しかし本人は、演技後半のジャンプでミスをしたことが大いに悔やまれたようだった。試合直後のインタビューでは、泣き沈んで長い間言葉が途切れた。その様子が痛々しかった。

 私自身は、スポーツ大会で活躍したことは無いから、勝負に負けたときの悔しさに、特別大きな思い出は無い。しかし、次女の卓球の試合では、一度激しいショックを経験したことがある。

 小学1年で卓球を始めた娘は、上達が目覚ましく、翌年の夏にはバンビ級(小学1、2年)で県の一位となった。そして全国大会へ進み、あれよあれよという間に勝ち進んで、3位に入賞した。その時の、親としての興奮ぶりは、今思い出すと恥ずかしいくらいである。ともあれ、その出来事によって、とんでもない世界に足を踏み入れたのは間違いない。競技者としての下地が無い我が家に、いきなり頂点でプレーをする選手の苦悩がのしかかってきた。

 翌年の全国大会。前回8位以内に入った選手は、ランキング選手と呼ばれ、優先的に参加を許される。娘の場合は、3年生になったから、カブ級(小学3、4年)での参加となる。このクラスでは年上の4年生の方が有利であるが、前年のバンビ級のランキング選手は、3年生にもかかわらず上位にシードされる。娘は全国から集まった150人ほどの選手の中で、第4シードであった。単純に言えば、優勝候補の4番手である。

 シードされた選手は、1回戦をパスし、2回戦目から登場する。つまり、1回戦目を勝ち抜いて、体が温まり、しかも気を良くしている選手といきなり当たることになる。子供の場合、これが結構きつい。シード選手が、初戦で敗退するというケースがしばしばある。これを「シード下に負ける」という。

 意気揚々として大会に臨んだ娘も、シード下に負けてしまったのである。

 負けた直後から、娘は大泣きであった。私は言葉を尽くして娘をなだめたが、心中は無念、失望、恥ずかしさ、怒り(相手はちょっと汚なかったが、全国大会では普通のことであると後で知った)、そして悲しさで大混乱だった。それは並大抵のショックではなかった。とてつもなく大切なものを、一気に失ったような絶望感に襲われた。こういう時は不思議なもので、「もしあのときこうだったら」というような、もはや考えても仕方のない事が、頭の中をグルグルと駆け巡る。それが冷静な思考や判断を遠ざける。まさにパニックであった。

 そんな状態で帰路に就いた。その車の中で、繰り返し自分に言い聞かせた事がある。それは、「娘は死んでしまったわけではない」であった。大袈裟と取られるかも知れないが、これは本当の事である。予想外のショッキングな出来事に対抗するには、これくらい極端な事を考えるしかなかったのだろうと、あの時の自分を想像する。

 昔テニスのウインブルドンで、第一シードのボリス・ベッカー選手が、初戦で敗退するという大番狂わせがあった。その時ベッカーのコーチは、「彼は死んでいない」と発言した。どういう意味で言ったのかは分からないが、似たような心境だったのかも知れない。

 オリンピックやウインブルドンと、国内の子供の試合を比べるのは的外れかも知れない。しかし、どのレベルの戦いであっても、勝敗に係わる喜びと悲しみの深い部分には、共通したものがあると思う。強烈なインパクトは、経験した者にしか分からない。浅田選手がさめざめと泣いている姿を見て、昔日の身の毛がよだつような出来事が思い出された。胸がしめつけられるようで、正視できなかった。



ーー−3/9−ーー 半日の徒歩旅行


 昨年の秋頃から、腰の具合が良くない。夏までは調子が良く、喜んでいたのだが、秋口にちょっとしたことで痛めてしまって以来、スッキリとしないまま年を開けた。

 2月の下旬に、症状が悪化した。ある日、グキッとやってしまい、それから痛みが繰り返し出るようになった。腰痛が出た時は、掛りつけの鍼灸院で診てもらうことにしている。今まで、同様のケースは何度となくあったが、一回か二回の治療で治ることが多かった。

 今回の腰痛、鍼灸院の見立てでは、大した損傷では無いとの事だった。背中に疲れが溜まっていて、それが腰の筋に影響を与えて、痛みが出ているのだろうと言った。背骨が若干湾曲しているのも、痛みの原因の一つになっているとも言った。湾曲は、体の左右の筋肉の使い方がアンバランスであることによるが、それは仕事柄仕方ないことであろうと。今回は二回治療を受けた。

 治療は受けたが、症状は目に見えて改善されなかった。鍼灸の治療というものは、基本的に体が本来持っている治癒力を活性化させる行為とのこと。だから、治療効果が出るまでに日数が掛ることもある。それは今までに経験済みだから、治療を疑いはしない。しかし、腰が痛くて、普段の仕事が出来ない日が続くと、さすがに気が滅入った。

 つい先日、友人とメールのやりとりをして、腰痛の事に触れたら、歩くのが良いとアドバイスされた。その友人もひどい腰痛に悩まされた時期があった。それを、少しずつ歩くことで治したと言う。彼の説明によると、腰痛は骨盤や背骨回りの軸がずれてしまうことによって生じる。それを矯正するには、歩くことで筋肉の血流を高め、活性化し、左右のバランスを正常に戻せば良いと言う。彼はこれを「アライメントを正しくする」という表現を使った。アライメントとは、機械用語で「駆動機と被駆動機の回転軸を一直線上に合わせること」を意味する。友人はエンジニアなので、このような表現を使うのだが、意図している事は明快に伝わった。

 友人は、「じっとしているのが一番良くない」とも書いていた。普通、腰痛が起きたら、静かに寝ているのが良いと言われる。これも、症状の現れ方と、程度によるのだろう。ひどいギックリ腰のように、立つこともできないような状態では、寝ているしかない。それに対して、慢性的な痛みの場合は、適度に動かす方が良いかも知れない。じっとしていると筋が固まってしまって、かえって治りにくくなる可能性もある。思い返せば、腰や背中に疲労の蓄積を感じたときに、裏山を登ったり、サイクリングをしたりすることで、固まっていたものが緩んだような、スッキリとした感じを味わったことが、過去に何度かあった。歩いたり、自転車をこいだりする行為は、左右均等な動きの繰り返しだから、それによって歪みが取れ、バランスが整うということは理解できる。

 友人のメールを見て、急に歩きたくなった。普段の生活で、意識して歩く事は、ほとんどない。体力トレーニングは、ランニングかサイクリングをやっている。生活の上で必要な移動は、車を使う。まとまった距離を歩くのは、登山のときぐらいだが、それは年に数回くらいの事でしかない。

 早速準備をして、11時前に家を出た。安曇平の西の縁を南北に走る道路、通称「山麓線」を北に向かって歩く。車では、しょっちゅう走っている道なのだが、歩いたことは、これまで散歩程度しか無い。足を延ばしてみると、距離の感覚がまったく違って、驚いた。車で10分かからない「すずむし荘」まで、1時間かかった。

 さらに歩く。景色の見え方も、車の運転席から見るのとは違って、新鮮だ。暦の上ではもう春でも、安曇野にはまだ寒々とした枯れ草色が広がっている。見渡す耕地や野原から、雪は消えているが、これも今一時のことで、本当の春が来るまでには、まだ何度か白い景色が訪れるだろう。


あたゝかき光はあれど          
野に満つる香も知らず
浅くのみ春は霞みて           
麦の色わずかに青し
旅人の群はいくつか           
畠中の道を急ぎぬ


 家を出るときは、暖かい陽気だったのに、松川村を過ぎるころから、北風が冷たくなった。行く手にそびえる北アルプスの真っ白い峰から、風が冷気を運んで来るようだった。ザックからウインドブレーカーを取りだして着た。帽子も被ってきて良かった。防寒具を持参していなかったら、このあたりで引き返さなければならなかっただろう。

 ウォークマンを取りだして、聴きながら歩く。広々と展開する景色の中を、黙々と歩く孤独な行為。その感傷を、イヤホーンから流れ込む音楽が劇的に盛り上げる。曲目は、ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番。

 当初は、行ける所まで行って、帰りは電車で戻るつもりでいた。しかし、歩きながら、気分が変わった。大糸線は列車の本数が少ない。どこかの駅まで歩いても、そこで長い時間待たされる可能性が高い。それなら、適当な所でUターンして、歩いて帰った方が、長い時間を歩くことができる。さて、どこで引き返そうか、それが問題だ。何でも無い道端で引き返しては、折角の半日がかりの遠征が興ざめだ。

 歩き始めて3時間半、大町市の西にある蓮華大橋に着いた。ここなら、折り返し地点として申し分ない。橋の中ほどまで進み、川の流れと上流の山々を眺め、そこから引き返した。

 家から持ってきたのはペットボトルの水だけで、食べ物は無い。途上に、食べ物を売っている店も無い。何も食べずに歩き続けた。それでも、さしたる空腹感は無い。これはどうしたことだろう。

 疲れはさほど感じないが、足の裏が痛くなってきた。皮がむけているような、嫌な痛さ。悲惨な状態を見るのが怖いので、また見てもどうしようも無いので、靴を脱いで調べることはしない。この痛みは、次第に強くなり、最後の1時間は極端なペースダウンを強いられた。

 歩いても歩いても、遠くの景色が近付かない。徒労感が押し寄せる。なんだか空虚な気持ちになった。登山で山の上を歩くのとは違って、下界を歩くのは単調な行為だ。その単調さが、ときおり思索的な心境にもさせる。普段は考えないような事が頭をかすめる。それにしても、文明開化までは、老若男女を問わず、人は皆このようにして歩いて移動したのだろう。たいへんなことだったに違いない。この移動手段の違い一つを取ってみても、かの時代の人々と現代人とでは、精神性に大きな違いがあるだろう。

 夕方6時過ぎ、周囲が薄暗くなって、景色の判別がつかなくなる頃、自宅に帰りついた。歩き続けで7時間、約40キロの徒歩旅行だった。

 友人にメールを送って、この「歩き」の報告をした。返信があり、いきなりそんな距離を歩いたら、却って腰をダメにすると怒られた。



ーー−3/16−ーー ピアスの値下げ


 このたび、アームチェア・ピアスの価格を改定した。118000円から99000円へ、大幅な値下げである。

 この椅子は、制作者本人がたいへん気に入っている。もちろん、商品リストに載っている品物は全て気に入っており、この椅子だけを特別扱いする気は無い。ただ、正直なところ、この椅子には特別な愛着を感じている。

 座り心地の良さはもちろんだが、形のバランスが良い。しかも、他に類例を見ない斬新な構造である。どこにでもあるようなモノではない。その構造故に、この形が出来たとも言える。それでいて、奇をてらったような嫌味がなく、静かで落ち着いた雰囲気を持っている。アームチェアらしく、ゆったりとした使用感だが、意外にコンパクトで場所を取らない。自宅で毎日使い、眺めるうちに、愛着は増す一方である。

 画像では、残念ながら、その良さの全貌が伝わらない。物体の三次元的な魅力を、画像で伝えようとしても、しょせん無理である。もちろん座り心地も、手触りも、現物に接しなければ分からない。

 実を言うと、私がピアスに対して特別な思い入れがあるのは、別の側面もある。この椅子、昨年の6月に完成して以来、全然評価されていないのである。自宅を訪れた何人もの人に、この椅子を見せ、感想を求めたが、褒めてくれた人はいなかった。展示会でも、ほとんど注目されなかった。展示会では、Catアームチェア06といった「重鎮」たちが横に並んでいたので、霞んでしまったのかも知れない。唯一ピアスに前向きの評価をくれたのは、正月に帰省した息子だけだった。「とても良い形だと思う」と言った。そして、「この形は、ヨーロッパ的な感じがする。日本人にはどうかな」と付け足した。ともあれこのピアス、評判が芳しくないから、私としては、可哀そうで、余計いとおしくなるのかも知れない。

 せっかく良い椅子なのに、見向きもされないというのは、口惜しい。そこで、価格を下げることにした。これは製作者として苦渋の決断である。

 もともと高めに価格を設定し、それを下げただけではないかと言われるかも知れないが、そんなことも無い。製作にかかる手間と、品物の出来映えから言って、元の価格は不相応なものでは無かったと思う。もっとも、顧客の立場からすれば、違う感覚があったのだろうが。

 ちょっと詳しく見る人なら、この椅子がSSチェアにアームを追加したものだと気付くだろう。それだけの違いなのに、SSチェアより格段に高かった価格に、疑問を抱いた人もいたかも知れない。それに関しては、こちらの事情がある。SSチェアは、ダイニングチェアという性格から、4脚以上のセットで購入されるケースが多いと予想した。となると、価格を低めにしないと、買い手側のハードルが高い。一方、数がまとまれば、多少の量産効果はあるから、単価を下げても良いと考えた。SSチェアは、そういう理由で価格を押さえてある。

 余談だが、そのSSチェアでさえ、あるショップに持ち込んだら、値段を叩かれたことがある。5万円でどうかと。編み座の場合は、外注工賃が15000円ほどかかる。それに送料などの経費を見れば、私の手元に入るのは、30000円程度にしかならない。中年サラリーマンなら、一日分の賃金である。この椅子を、木取りから塗装まで、一日で作れということか。

 アームチェアは、数をまとめて買うケースが少ないから、多少高くても買い手の抵抗感は少ない。この場合、高くてもというのは、無理に下げた価格でなくてもという意味である。

 ピアスの元々の価格設定にはこんな背景があった。しかし、制作者側がぐだぐだ理屈を述べても、お客様が買ってくれないのでは仕方無い。価格を下げることにした。どこまで下げるかが問題だったが、中途半端なことでは、ラインナップの中での位置付けがぼける。とりあえず採算よりも顧客の「食いつき」を優先して、大幅な値下げを決めた。今まで買ってくれたお客様はいないから、価格を下げても対外的な支障は無い。これが販売実績のある商品だと、値段を下げる事は、上げる事より難しい。

 価格を決めるのは難しい。大竹工房の売れ筋商品であるCatとアームチェア06は、それなりに価格と品質のバランスが取れているから、売れ続けているのだろう。ピアスも、新しい価格で局面が開ければと願っている。



ーー−3/23−ーー プラスチック製尺八


 画像の品物は、それらしい形をしていないが、尺八である。「なる八くん」という可愛い名前が付いている。材質はプラスチック。昨年の春、ある人のブログでこの品物の存在を知った。それまで、世の中にプラスチック製の尺八があることを知らなかった。そのブログでは、プロの演奏家による、この楽器を使った尺八講習会のことが紹介されていた。この異型の尺八を使った演奏の出来映えは素晴らしく、驚かされたとの感想が書かれていた。つまり、ちゃんと使える楽器なのである。

 私は10年ほど前からケーナという楽器に親しんでいる。南米アンデス地方に古くから伝わる笛の一種だが、近代になって西洋音階のチューニングによるものが作られ、世界中に広まった。日本にも、ケーナを手にしたことがある人は数多くいると言われている。プロが使う楽器でも、1万円以内で買える価格なので、一度は手を染めた人が多いようだ。しかし、実際に吹きこなせる人の割合は少ない。音を出すのが難しい楽器なので、諦めてしまう人が多いのである。

 私のケーナは、それなりの苦労の年月を乗り越えて、人前で演奏ができるくらいに上達した。始めた頃は購入した楽器を使っていたが、ここ数年は自作のものを使っている。トータルとして、ケーナという楽器に関して、自分の世界を作り上げたような自負はある。しかし、ここへ来て少し情熱が衰えてきた。

 たった一人で楽器を続けていくのは難しいと言われる。東京の南米楽器の店で、オーナーと話をしたとき、私が一人で練習をしていると言ったら、「偉いですね、よく頑張れますね」と言われたことがある。楽器というものは、定期的に指導を受けるとか、仲間と共に合奏をする、あるいは人前で発表するなどという「刺激」がないと、モチベーションを維持することが難しい。私の孤独な精進も、上達がS字カーブの上の方に来て、少し目標を見失った感がある。

 そんなときに出会ったのが、この「なる八くん」であった。尺八とケーナは、音が出る原理は同じである。ちょっと気晴らしにやってみようということになった。

 「なる八くん」を取り寄せて遊び始めてから8ヶ月ほど経って、今度は見た目にも竹製の尺八とそっくりなプラスチック製と出くわした。二枚目の画像のものである。この楽器に興味を覚え、ネットで調べるうちに、ある尺八の名人とメールでやりとりをする機会を得た。その人から、強力に勧められた。非常に出来が良い楽器で、竹製のものと比べても遜色が無く、舞台で使える品物であると。その模範演奏をネットで聞いてみたら、うっとりとするような音色だった。それで、我慢ができなくなり、購入した。そういう衝動買いができる程度の価格なのである。

 それから約1ヶ月。毎日少しずつ練習をしているが、なかなか音が出ない。「尺八は最も音を出すのが難しい楽器の一つ」と言われるが、確かにそのような気がする。なる八くんは、8ヶ月やって慣れているせいか、比較的音が出る。それに比べて、この竹もどきは、難しい。上手く吹けるようになれば、なる八くんより良い音が出る予感はする。しかし、その道のりは遠いようだ。

 あまりに音が出にくいので、メーカーに問い合わせようかと思ったこともあった。不良品ではないかと。たぶん、そのような問い合わせをするユーザーが多いのだろう。尺八には、「検印」を押した紙が巻かれていた。新しい尺八を手に入れて、上手く鳴らない不満を述べるケースの90パーセント以上は、使用者の力量不足によるものだと聞いたこともある。今回もたぶんそうなのだろう。

 ともあれ、またチャレンジする対象を手に入れた。孤独で単調な生活は、モノ作りの仕事にはつきものだが、何か気分を変えることができる趣味を持っていると救われる。この先どのような展開になるかは分からないが、当面はこの音が出ない筒に付き合ってみることにしよう。



ーー−3/30−ーー 極めつけの台詞


 バンクーバー五輪のフィギュアスケートのペア。ロシア代表ペアの女性は、日本人だった。いや、国籍をロシアに移しているから、元日本人というべきか。川口悠子さん。小柄な、笑顔が素敵な女性だった。

 彼女は、長野五輪でロシア選手の演技を見てあこがれを持ち、どうしてもそのコーチに就きたいと思い、ロシアに渡って指導を受けた。そして、ペアでロシア代表にまで上りつめた。そのロシア代表として今回の五輪に出るために、日本国籍を捨て、ロシアの国籍を取得した。日本では二重国籍が認められていないためであるが、思い切った決断だったことだろう。

 その川口選手、競技のために国籍を変えたことについて、こんなコメントを述べていた。

「私は、コーチがアフリカ人なら、アフリカまで行ってましたね」。

 ご本人が、どのように重大な決意を持って事にあたったかは、他人の知るところではない。しかし、このコメントは実に軽妙で、またインパクトがあるように感じられた。アフリカでスケートを教わるというのは、いささか現実離れしている。その非現実的な比喩が、却って発言者の思いの強さを際立たせているようで、印象に残った。


 * * * * * * * 

 ジャズ・トランペット奏者マイルス・デビスは、1950年代に不滅の名盤カインド・オブ・ブルーをはじめ、多くの優れた演奏を残した。その演奏の中に、しばしばピアニストのビル・エバンスが登場している。マイルスをはじめ、黒人メンバーが主流だった当時のジャズ界で、白人のビル・エバンスは異色の存在だった。

 まだ人種差別が色濃く残っていた時代である。マイルス自身も、人種差別に強く反対する立場だったとか。黒人ジャズメンの中には、白人と共演することに不快感を表す者も多かった。ジャズは黒人のものであり、白人なんかにやらせる必要はないと。マイルスがビル・エバンスと組むことについても、そのような批判をする黒人仲間がいたらしい。それに対してマイルスは、きっぱりとこう言ったそうである。

「オレは、上手い演奏をする奴なら、肌の色など緑色でも構わない」

 ジャズの巨人から発せられたこの言葉。かの名盤の演奏と重ねてみると、何とも言えない凄みがある。



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